経営には古今東西、時代にふさわしい経営が求められ、それを逸脱した経営は必ず淘汰されたり世間から抹殺される。時代にふさわしいとはその時代における社会・地域の人達に誠心誠意お役に立つことであり、ひととき嘘をついたり、ごまかしたり、手練手管をしてのし上がったりしてその場はうまく行ったとしても早晩メッキは剥げ没落するのが世の習いである。戦後、若手経営者で成功し、今日も発展し続ける(株)京セラの稲盛氏は事業を拡大したり新規事業を立ち上げる時には必ず、その仕事が真であるか、善であるか、美であるかという視点でチェックをしてから実行に移されるそうである。
さて、この「真・善・美」とは国語辞典などの浅い説明では間違える。例えば、眞とは「本当、まこと、真理」とあり、「本当」とは「まこと」と、はなはだ抽象的である。
又、「善」とは「良いこと」も又然り、「美」とは「美しいこと、良いこと」と解説されており何れも腹に落ちてこない。例えば、革命で権力者が殺され、その社会の多くの人が救われる。これを殺人は悪であるとか或いは動物を殺すのも悪と思いながら肉や魚を食べている。「殺すな」とは大変矛盾する言葉である。
さて、これを禅的に解説すれば納得しやすい。「眞」とは我々が生きているこの大宇宙、その原理原則は無常無自性、ものごとは一瞬一瞬常に変化し、そのもの自体も他によってあらしめられており、それを良い悪いといった人間側がみる相対的見方は意味をなさない。即ち空である。道元禅師は透脱即ち心が透き通って何事にも捉われない心でみると、あるがままの今ここの現実(因縁のもたらせたこの結果)が見える。
次に「善」とは宇宙の法則に自分が一つになる即ち対象(お客)と一体になることであり、それによって宇宙のはからいにあらしめられる知恵が天から(自分の仏性から)与えられる。そして「美」とはその知恵に沿った行動によって今ここが全機現即ち現成(社会や利害関係者に対して最適な製品やサービスとなって現れる)することになる。
道元禅師は全機の巻で「諸仏の大道その究尽するところ、透脱なり現成なり」(諸々の悟った人達の残した大きな道は無であり一体一如である)と示している。