碧巌録にある公案。中国の梁の武帝は厚く仏教に帰依し、多く
の寺院を建てた。ある時、インドよりやって来た達磨(禅の初
祖といわれる)に会い、問答を行った。武帝は「私は今日まで
多くの寺院をつくり、僧侶を庇護し、経典を学んできたがその
功徳はどんなものか」と。これに対し達磨は「無功徳」と答え
た。それでは「仏法の根本の意義は何か」と問うたところ、達
磨は「廓然無聖(カクネンムショウ)」即ち一点の曇りもなく
カラッとして聖も俗も悟りも迷いも執着もない境地であると答
えた。これに対し武帝はムッとして「あなたは仏法を会得する
聖者と聞いているが何故か」と問うた。これに対し達磨は「不
滅」と言い残し、真理が通じないことがわかり帰ってしまった。
無功徳とは帝が自分のしてきたことを賞賛すべきといった功徳
を誇ったり、恩に着せる心の煩悩(いやしさ)をたしなめたも
のであり、善行とは自分のためにする行為、いわゆる作務や掃
除の如き自分を磨くものである。廓然無聖とはガランとして何
もない、俗に対する聖といった相対的でない絶対的な空や無の
世界で、こだわりない境地を言っている。不滅とは識る、識ら
ないといった二次元対立を越えた不識、即ち分別心をたしなめ
た言葉である。
このように己の知識は一方の価値のみにこだわりやすく、又知
識は時と場合によっては自分の都合で変えられてしまいがちで
ある。身についた知識、即ち体得した智恵にならなければ本当
の自信につながらない。
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