無門関第19則にある公案で、悟りとは何か特別なことではな
く、日常生活(行住坐臥 ギョウジュウザガ)そのものという
教えである。我々は普段生活をしている中で必要に応じて、神
経や体が動く本来の能力(本来の自己)が備わり足りているに
もかかわらず、時に欲望の肥大化を起こし、また他からの情報
に影響されて損得や軽重を計り、本来の自己を見失い、心が動
揺して他人を傷つけたり、他人のものを奪ったりする結果自ら
を傷つけてしまう。また心の命ずるまま当たり前のことを当た
り前に愚直に行うことからはずれて過度な刺激を求めて異常な
ストレス状況に身を置き続けて心身が正常な働きを失い気を病
んで病気となる。
先述した非風非幡の公案における迷いと同様、いかにして平常
心や不動心でいられるか、頭で理解してもその場の難問に合う
とオタオタしてしまうのが俗人である。そこから脱するには常
に矛盾する問題解決の場から逃げずに全身全霊傾けて 即ち、
難問ほど又とない修行と思い、工夫し行動する日日いっぱいに
生きる習慣をつくることから難問を乗り越える智恵が身につく
ものである。
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