三昧は梵語 samadhiの訳語で一つのことに集中して邪念のな
いことを意味している。転じて広く一つの物事に熱中するこ
と、贅沢三昧などと用いられる。
さて、一つの事に集中するには心から楽しい、面白い、興味
が湧くといったことに対しては誰でも集中できるが、困難に
出会った時、問題が起こったといった時には誰でも逃げたり
避けたりするものである。しかし、それでは問題は解決しな
い。問題に集中する、一つになり切るには逃げたいという我
欲を捨てる。即ち無になる。知識や感情、意識の3つを棄て
るときに初めて解決すべきその問題になり切れる。
禅では常にそのような状況に身を置ける体質づくりを行うそ
の修行が坐禅である。坐とは人(後天的な作られた我欲をも
った自己)と人(本来生まれ持った自己、真我)が手を合わ
せて土の上に坐っている、一体となっている姿である。坐っ
ている時は呼吸と一つになる。吐く時は吐くだけ、吸う時は
吸うだけに集中すると他のことに気が散らなくなる。そして、
坐禅が大変心地よい境地、すなわち坐禅三昧となる。
体質とは慣れとは違う。かけがえのない命を持つ一人一人の
患者さんを診るのに慣れで流すと、時としてミスや事故が起
こる。
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