禅宗では流派を問わず自己に本来備わっている真実(実相)
の本性を悟って仏の境涯に到達することを言い、見仏とか見
性悟道とも言っている。仏とはいろいろな意味に用いられる
が、ここでは悟った人を指す。
仏とはその他に仏教の開祖釈迦牟尼仏 悟りを形に現した
阿弥陀仏、如来、菩薩、明王、夫など礼拝の対象となる像を
指すこともある。死者や慈悲深い人、転じてお人好しまで展
開されるが本質からははずれていってしまう。
人は修行(坐禅やお経をあげるだけでなく、仕事やボラン
テイアなどそのものを極めることも修行)すれば誰でもひと
とき見性に到達することはあるが、そのひとときの悟りはや
やもすると又迷いに落ちる。それ故に人は生きている限り常
に修行を積まなければ元の木阿弥に転じてしまう。
他人を理解しようとか対象の本質を見抜こうとするならば、
まず己の本性を知ることが早道である。すなわち道元禅師の
言う「自己を習うというは自己を忘れるなり。自己を忘るる
というは万法に証せらるるなり」である。
戻る
|